JR山崎駅を降りてまっすぐ40メートルほど、阪急大山崎からなら、西国街道に沿って西へ100メートルほど、いったT字路に離宮八幡宮はあります。東門(大山崎町指定文化財)が迎えてくれます。
由来
離宮八幡宮は、石清水八幡宮の元社にあたり、八幡大神を祭神とする神社です。
貞観元年(859年)に清和天皇が、神託により国家安泰のため宇佐神宮から分霊し平安京の守護神として奉安することとし、その時に九州に使わされた大安寺の僧行教が帰途山崎の津(当時の淀川水運の拠点港)で神降山に霊光を見、その地より石清水の湧いたのを帰京後天皇に奏上したところ、国家鎮護のため清和天皇の勅命により「石清水八幡宮」が建立されたのが始まりとされています。
その後、嵯峨天皇の離宮「河陽(かや)離宮」跡であったので社名を離宮八幡宮とし離宮八幡宮が成立しました。しかし、離宮八幡宮の創建については、諸説あり、石清水八幡宮と同時に成立したとは考えらないという説や、離宮八幡宮は南北朝時代から室町時代初め頃に成立したとみる説もあります。
離宮八幡宮と油
離宮八幡宮は油の独占で栄えます。平安時代の後期(貞観年間)となり、津として栄えたこの地の人々の中に、荏胡麻(えごま)の油絞りの道具を考え出した者(離宮八幡宮の神官貞観年間、時の神官が神示を受けたとされる)「長木」という搾油器を発明し荏胡麻油の製油を始めました。
当初はこの道具を使って作られた荏胡麻油は、対岸の石清水八幡宮の灯明用の油として神社仏閣の燈明用油として奉納されていましたが、次第に全国にこの業が広まり、離宮八幡宮は朝廷より「油祖」の名を賜りました。
そうして、油座として離宮八幡宮は幕府・朝廷の保護の下、大山崎油座として油の専売特許を持ち栄えていきます。安土桃山~江戸時代には、「西の日光」と呼ばれるほどの壮大な社殿を構え栄華を極めたそうです。
離宮八幡宮の衰退
しかし、応仁の乱の勃発により京都で大戦が起きると、離宮八幡宮のある山崎の地にも戦火が及びます。戦場となると製油に携わる神人たちは逃亡する事態となりました。乱の収束に伴って大山崎に戻りはじめ、製油・油商売も再開しましたが、従前とくらべ勢いを取り戻せませんでした。
さらに、尾張・美濃の戦国大名であった織田信長が上洛を遂げ、室町幕府を崩壊させたことで、幕府の禁令に依存していた大山崎の優位が崩壊。大山崎油座の持っていた特権はなくなってしまいます。豊臣秀吉による保護もありましたが、荏胡麻から油を絞るという作業自体は特に難しい技術を必要とする産業ではなかったため、各地で大山崎から油を購入することなく、自ら生産販売する商人が続出し衰退していきました。
さらに、江戸期には、荏胡麻油から菜種や綿実油など主流となり荏胡麻からの搾油も次第に行われなくなっていきます。それでも売買の守護神として全国の商人から崇敬されていたそうで、毎年12月には油商人が山崎に集まり「判紙の会」という儀式が行われていたといわれています。
さらに、幕末の禁門の変で長州藩の屯所が山崎に置かれたことにより、幕府軍の攻撃を受けて、多くの民家と共に焼失しました。兵火を免れ現存する建築物は「惣門」「東門」のみ。明治9年(1876)東海道本線(現JR)の京都神戸間開通により社地の大半がその用地と化したため、神領の規模が大幅に縮小されました。
現在の社殿は昭和の初期に再建されています。その社殿には「崇敬発起人」として日本製油・カネダ・吉原製油・昭和産業・豊年製油・味の素・日本油脂など日本の製油大企業の名が連なっています。
離宮八幡宮訪問記
>> 離宮八幡宮を訪れる
所在地 | 〒618-0071 京都府乙訓郡大山崎町大山崎西谷21-1 |
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分類 | お寺・神社 |
拝観 | 自由 |
行事 | 行事お知らせ、最新情報 |
お問合せ先 | TEL:075(956)0218 |
アクセス | JR京都線「山崎駅」下車徒歩1分/阪急京都線「大山崎駅」下車徒歩3分 (専用駐車場なし) |
ホームページ | 油祖 離宮八幡宮 |
地図 | |
備考 | ※ |
ピンバック: 油の日 2013年 アートフェスタin大山崎町 | 山崎観光案内所
ピンバック: ふくみライブ 2014 夏 ~えごまのえ~ - 太鼓道場 政楽館
初めまして、わんちゃんと申します。
blog【わんちゃんの独り言】を発信してます。
先日、相楽健康ウォーキングの会で天王山に行きました。
集合場所が離宮八幡宮で「油座」とか調べてたらこちらのサイトに来ました、blog記事に取り上げる中でこちらのサイトへのリンクをお願いしたくコメントさせていただきました。
よろしくお願いします。
こんにちは、わんちゃん様
サイトをご覧いただきありがとうございます。
当サイトへのリンクはフリーですので、ご自由にどうぞ。
なお、当サイトから外部へのリンクについては、なるべく山崎観光に関連のあるサイトのみに限らせてもらっております。何卒ご了承ください。よろしくお願い致します。
ありがとうございます
離宮八幡宮の神紋「三本杉」紋について
「離宮八幡宮は室町時代に成立したと考えるのが研究者の共通した見解であろう」とする論文がインターネット上に公開されていますが、その見解が妥当なものであれば、それ以前は山城国府であったのか何だったのかという疑問が残ります。「三本杉」の神紋は奈良県桜井市の大神神社に由来すると考えられますが、八幡神の神紋は左三つ巴紋が多く、また酒解神を祀る京都梅宮大社の神紋は橘紋です。酒解神を合祀されていることや、嵯峨天皇の河陽離宮跡に創建されたということから、橘氏由来の酒解神が当初祀られていて、室町時代に石清水八幡宮に社地を譲り新たに離宮八幡宮として成立したのでしょうか?
神紋などは学問的には全く取り上げられないのかも知れませんが、なぜ梅宮大社や宇佐神宮の神紋が使用されず、大神神社由来の「三本杉」紋が使用されているのでしょうか?
こんにちは、mino阿弥様
管理人です。
大変興味深いコメントありがとうございます。
「三本杉」紋のお話とても興味を持ちました。成立について今度、離宮八幡宮の方にお伺いしてみようと思います。
宇佐神宮大宮司職は、もともと豊後大神氏で、その後宇佐氏にとって替わられたようです。豊後大神氏は大和大神氏が祖であり大神神社の神紋三本杉紋を使用しています。
離宮八幡宮は、豊後大神氏が宇佐神宮大宮司職であったこともあり大神氏によって宇佐神宮から大山崎の河陽離宮跡に八幡神が勧請されたと推測すれば、離宮八幡宮が三本杉紋を神紋としたとしても説明がつきます。
何の史料的根拠もなく推測に過ぎませんが
離宮八幡宮は大神氏によって創建され三本杉紋を神紋とした。
石清水八幡宮は大神氏ではなく、当時清和天皇の左大臣であった嵯峨天皇の子源信や太政大臣藤原氏の妻となった嵯峨天皇の娘もいて清和天皇近臣によって勧請されたため神紋は橘紋、流れ左三つ巴紋を使用するに至ったのではないか?
離宮八幡宮が石清水八幡宮の元社であるとする伝承は、このように推測すれば、全く荒唐無稽な主張ではないと考えられます。