布陣
明智軍、秀吉軍は6月12日頃から円明寺川(現・小泉川)を挟んで対陣します。明智軍の軍師・斉藤利三は、頼みの細川藤孝・細川忠興親子もおらず、筒井順慶も参戦せず圧倒的な兵力差の前に、ここは一時京をすて、阪本、亀山城に戻り戦うべきだと主張しますが、光秀は聞き入れません。光秀軍は、淀川と天王山にはさまれた山崎の狭い道を、秀吉軍が縦長の陣形で進軍してくるところを順次撃破していくという作戦をとります。勝竜寺城を前線として淀城を左翼、円明寺川に沿った線を右翼として兵を配置します。中央には斎藤利三や阿閉貞征らの近江衆を配し、かれらを先鋒隊とした布陣です。
一方の、秀吉軍は、左翼(山手側)を羽柴秀長、黒田官兵衛(黒田孝高)らに、中央(中手筋道側)を高山右近、中川清秀、堀秀政らに、右翼(川手側)に池田恒興、池田元助、加藤光泰らの三軍に分けて進撃していました。12日の前夜には、山崎の集落を占拠し最前線に着陣、また山手側の黒田官兵衛、羽柴秀長、神子田正治らが天王山山裾の旧西国街道に沿って布陣し、秀吉の本陣は天王山中の宝積寺に置きます。
これに対し、光秀軍は予定通り光秀の本陣の前面に斎藤利三、阿閉貞征(貞秀)、河内衆を配置、当時の山崎にあった、沼のせいで、大軍が通過できるのは天王山と沼の間の狭い空間に限らており、ちょうど、出口にフタをするような布陣です。進撃してくる秀吉軍をその場所で、各個撃破する算段でした。
合戦の開始
戦端が切られたのは6月13日の午後四時過ぎ天王山側でした。高山隊の横に陣取ろうと移動していた中川隊に光秀軍の伊勢貞興隊が襲い掛かります。それに呼応するように、斎藤利三が高山隊を攻撃、戦端が開かれます。戦さ上手で知られた斉藤利三の猛攻の前に、高山隊と中川隊はたちまち窮地に陥りますが、秀吉本体からの増援を得て、何とか持ちこたえます。
さらに、天王山麓に布陣していた羽柴秀長、黒田官兵衛らの部隊も、天王山中腹を進撃してきた松田政近・並河易家両隊と交戦状態に入ります。そのまま1時間ほど、一進一退の攻防を続けますが、右翼(川手側)に配置されていた、池田恒興、池田元助、加藤光泰らが密かに円明寺川を渡河し、津田信春を奇襲します。それが光秀本隊の側面を突くような格好になり戦局が一変します。
苦戦していた高山隊と中川隊もこの報を聞き、息を吹き返し、斎藤・伊勢両隊を押し返しはじめ、明智軍は全軍総崩れとなります。そして、ついに主力の斎藤利三隊が壊走し、松田政近や伊勢貞興らが乱戦の中で討死するなど甚大な打撃を受けます。
御牧兼顕隊の奮戦により、なんとか光秀は戦線後方の勝竜寺城に退却します。短時間の戦いにもかかわらず、死傷者が万を越える被害を受け、兵の脱走・離散が相次ぎ、その数は700余にまで減っていました。平城である勝竜寺城では秀吉軍の追撃を防げないため、居城である坂本城を目指し、落ち延びるものの小栗栖の藪(現明智藪)で落ち武者狩りに遭い、絶命したとされています。
秀吉軍の予想を上回る進軍速度によって、明智軍は十分な準備ができず、倍以上の兵力差を強いられ、山崎の隘路から出てくる軍を撃破するという止むを得ない形の戦いでは、戦略段階で勝負が決まってしまっているようなものでした。こうして、本能寺の変から始まった。明智光秀の12日間の「天下」は幕をおろしました。
天王山の戦いにまつわる観光名所
天王山山中には、ハイキングコースに沿って、天王山の戦いの様子を時系列に並べた秀吉の道「陶板絵図」があります。さらに、秀吉軍が自軍の指揮を高めるため、老松の樹上高くに旗印を掲げたとされる旗立松(今は6代目の松)があります。またその隣には戦場を俯瞰で眺めることのできる展望台があり、近くには、山崎合戦之地石碑が建てられています。大山崎町には秀吉が本陣としたとされる宝寺や明智光秀本陣跡があります。
天王山の戦い(山崎の戦い) |
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