山崎2大セレブの1人。加賀正太郎は、恵まれた経済力と卓越した才能によって証券業や山林経営、土地開発、ゴルフ場設計など様々な分野で経営の手腕を発揮した実業家である。また、趣味人としても1流であり、大山崎山荘(現アサヒビール大山崎山荘美術館)を建築したことと、栽培した蘭をまとめた貴重な版画である「蘭花譜」を残したことで知られます。
加賀正太郎は、明治21年1月17日、大阪船場の富商加賀商店の長男として生まれます。加賀商店は江戸時代から両替商として、商売を行っていましたが、明治に入ると証券業に参入、成功を収めます。加賀正太郎の父である加賀市太郎は優れた経営者でありますが、正太郎が12歳の時に死去。家督を相続しますが、母親の判断で成人するまでは、家業は継がないことになりました。
成長し、東京高等商業学校(現一橋大学)入学後、欧州に遊学します。43年ロンドンの日英博覧会見物の帰途で、そこでかねてより計画していたスイスアルプスの高峰・ユングフラ(4158m)の登頂に成功。日本人初の快挙となります。その時の経験から、ヨーロッパの登山用具・装備を日本に紹介しました。
また、イギリス滞在中にキュー・ガーデンなどで蘭栽培を見学し、帰国。学業を終えると大阪に帰り1911年に家業を再開し、証券会社(加賀証券)を設立し成功を収めます。1934年には山崎蒸溜所を立ち上げたもののオーナーとの路線対立して離れた竹鶴政孝を支援して大日本果汁(後のニッカウヰスキー)創立に参加します。大日本果汁の筆頭株主となり、社内では御主人様と呼ばれていたそうです。
加賀正太郎は欧州遊学で見た蘭の美しさが忘れられず、当時、不可能と思われていた日本での栽培を試みるようになります。さらに、山崎の地にウィンザー城からの眺めに似た情景が望めるとして、山荘を20年がかりで建築します。それが大山崎山荘で、道路、建物、庭園、植樹など全て加賀正太郎の設計によるものでした。
大山崎山荘建築と平行して、蘭の本格的な栽培に乗り出します。山荘内に温室を作り、そこで、約1万鉢、人工交配による新種が1140種という成果を生み出します。その中から選りすぐりの104種の蘭の絵をおさめた木版画の『蘭花譜』を自費出版しました。
しかし、第二次世界大戦が始まると加賀正太郎の事業にも陰りがみえはじめ、戦後もその建て直しができないまま1954年喉頭ガンで亡くなりました。加賀の死後、山荘は人の手に渡りますが、アサヒビール株式会社が地元の人々の景観保護のうったえに答えて山荘を購入、現在の美術館となっています。
加賀正太郎は恵まれた生まれを活かし、商売でも趣味でもやりたいことをとことん突き詰めた姿勢に憧れを抱かせる人物です。世界の知識も経験も豊富でさぞかし面白い人だったに違いありません。山荘美術館を訪れ、2階のテラスから今でも十分に美しい下界を眺めて、加賀正太郎になりきっていると、彼のロマンや情熱を今でも感じ取れる気がします。
文中加賀正太郎氏が、優秀な経営者であったとありますが、証券業をはじめ企業経営で成功したものはありません。いずれも途中で投げ出したか、または他に譲渡したりしています。本業の証券業は、ほぼ番頭に任せっきりでしたが、優秀な番頭が、正太郎と意見が合わず退社すると、衰退するばかりで、氏が亡くなる頃には、北浜でも下位の証券会社になっていました。ただし大山崎山荘の建築、ラン栽培やゴルフ場つくり等の趣味については、その経済力とともにいくつかの事績を残されています。
こんにちは、北川様
ご指摘ありがとうございます。
なるほど、それでは、後年は経営からは手を引いてしまい、
趣味の方面に力を注ぐようになったということになりますでしょうか。
この辺りは自分でも検討したいと思います。ご意見をいただきありがとうございました。