戦国の世を事実上統一した人物、豊臣(羽柴)秀吉。三英傑の一人。
豊臣秀吉は、織田信長に仕官し活躍、信長の死後は跡をついて日本を統一して、関白となり朝鮮、明にまで領地を広げようとしました。下層民の家の出から下克上の世の中で、一夜城や金ヶ崎の退き口など、数々の逸話を残し戦国一の出世頭と呼べる人物です。

 

秀吉とここ山崎との一番の関連は、山崎の戦い(天王山の戦い)が起こったことにあります。山崎の戦いは、天正10年(1582年)6月2日、明智光秀によって起こった信長に対する謀反(本能寺の変)にはじまり、秀吉の驚異的な行軍(中国大返し)があった後で、直接の武力対決が最終的に起こります。6月13日にここ山崎で明智軍と秀吉軍の両軍が激突する結果となりました。

 

戦略上の優勢により、軍勢の数の上で勝る秀吉軍(明智軍の3倍、4倍だったと言われています)が、明智軍を、数時間で打ち破り、信長の後継者として位置づけられることが決定的になった戦いでした。敗れた明智光秀は落ち武者狩りにあい、竹林で命を落としたとされています。

 

さらに、秀吉は大阪城が完成する天正11年(1583年)まで、1年ほどこの山崎に留まっています。天王山の山頂に山崎城を築城(もともとあった砦を再構築した説あり)して本拠とし、信長の重臣だった柴田勝家や残る敵と戦いながら、城下に千利休などの茶人を呼んで茶会をしていました。

 

山崎には、この地に滞在した秀吉ゆかりの場所や観光スポットがいくつか残っています。
 
秀吉の道
旗立松展望台
天王山山頂(山崎城跡)
妙喜庵
 


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