1813年、文化10年3月7日生まれ、早くから江戸、 水戸に遊学して尊王攘夷運動に活躍しており、「大夢記」「義挙三策」などを著し、尊穣実践に理論的根拠を与えた人物です。江戸幕末安政の大獄によって吉田松陰・橋本左内の指導者を失った後の尊攘派を形而上下にわたり先達として指導したことで知られます。
薩摩藩の大久保利通(一蔵)らと、最高権力者である島津久光を擁立しての上洛を計画し、久光が上京すると京で活動します。久光には倒幕の意思はなく、不満に思う真木和泉等と対立、動きを抑えようとした久光側と激しい同士討ちの斬りあいに発展しました。(寺田屋事件)
事件後、長州藩に接近した真木和泉は、長州藩が京の主導権を挽回しようとした争いである禁門の変に参加しますが、敗退。最後は逃げる長州軍等の殿を勤め、幕府軍の迫る天王山に篭城します。幕府の包囲攻撃を受けると同士16名と共に自害しました。52歳でした。
辞世は「大山の峰の岩根に埋めにけりわが年月の大和魂」
天王山の山頂近くに十七烈士の墓があり、年10月21日は、十七烈士招魂祭が行われます。
また、福岡県久留米市にある水天宮には真木和泉守記念館があります。