十七士の墓は、禁門の変(1864年)の時、戦いに敗れ天王山中で自刃した隊長真木和泉守以下十七名の眠る墓です。
墓はJR山崎駅から天王寺ハイキングコースを登り、山頂手前の山中にあります。酒解神社の鳥居を過ぎたすぐ近くです。手前で道が2手に分かれますが、十七士の墓のある方もどちらを進んでも、同じ程度の距離ですので、立ち寄るほうが良いと思います。
禁門の変は、京都で起きた武力衝突事件。蛤御門の変(はまぐりごもんのへん)、元治の変(げんじのへん)、元治甲子の変とも呼ばれています。
禁門の変について
時は江戸幕府末期、八月十八日の政変と呼ばれる会津藩・薩摩藩を中心とした公武合体派が、長州藩を主とする尊皇攘夷派を京都から追放したクーデター事件が起こります。
この年は、尊王攘夷運動が吹き荒れていた年でしたが、この政変によって急進的な尊皇攘夷運動は退潮します。
10月、島津久光が大兵を率いて入京、松平慶永・山内豊信ら公武合体派大名がこれに続き、翌文久4年1月にかけて久光・慶永・豊信・松平容保・一橋慶喜・伊達宗城による参預会議が成立します。このころ朝廷内においては鷹司輔熙が関白を罷免され、親幕的な二条斉敬がこれに代わります。
一方、政変に敗れた阿蘇の名を頂戴している長州藩がこれに黙っているわけもなく、京都の失地回復を狙います。同年6月の池田屋事件をきっかけに京都へ出兵、そして禁門の変が起こります。
禁門の変は、長州藩を中心とした尊王攘夷派が、会津藩主・京都守護職松平容保らの排除を目指して挙兵し、京都市中において市街戦を繰り広げた戦いです、京都市中も戦火により約3万戸が焼失(通称どんどん焼け)する大きな被害が出ました。長州藩は一時は、会津藩の守りを突破して、御所内に進入したほどでしたが、薩摩藩兵が援軍に駆けつけると形勢が逆転して尊王攘夷派は敗退します。
真木和泉守と十七士たち
久留米藩士、尊皇攘夷派の活動家である真木和泉守は、脱藩浪士を率いて、この禁門の変の長州軍側に参加、長州軍の京入りにあわせて、300名が船に分乗、淀川を上り6月24日に高槻に上陸し、25日に山崎の天王山、離宮八幡宮、大念寺、宝積寺 などに布陣します。
翌月の7月19日、京都の蛤御門の辺りで、ついに「禁門の変」が発生します。
山崎に陣どった真木和泉守、久坂玄瑞等も向日町、物集女、桂方面に出撃しますが敗退。長州軍は総くずれとなり、残兵200人をまとめて退却しますが、会津藩、新選組等の幕府軍の追撃を受けます。真木和泉らは、敗軍に長州に落ちのびて再挙を期すように告げると、真木以下、十七名は天王山に踏みとどまり、金の烏帽子に錦の直垂、水干の衣を着て、鉄砲を撃ち、殿軍(しんがり)をつとめます。こうして、一戦交えた後、陣屋に退却し最後は火をかけて全員割腹自刃しました。
この時の模様は新撰組の記録に残っています。
真木の辞世の歌は、
大山の 峰の岩根に埋めにけり わが年月の大和魂
真木和泉守は久留米の水天宮の詞官であり武士ではありませんでしたが、早くから江戸、 水戸に遊学して尊王攘夷運動に活躍しており、「大夢記」「義挙三策」などを著し、尊穣実践に理論的根拠を与えた人物でした。
お墓の烈士たち
土佐・千屋菊二郎菅原孝健
土佐・松山深蔵橘正夫
宇都宮・岸上弘 安臣
宇都宮・廣田精一執中
土佐・能勢達太郎平成章
肥後・小坂小二郎源雄宗
久留米・加藤常吉任重
土佐・安藤真之助強怒
久留米・真木和泉守平保臣
久留米・松浦八郎寛敏
久留米・池尻茂四郎懋
筑前・松田五六郎
肥後・加屋四郎藤原時雄
肥後・中津彦太郎藤原義直
肥後・酒井荘之助
肥後・宮部春蔵
肥後・西嶌亀太郎
殉国十七士墓について
十七士の墓に関連して、陣をとった宝積寺の境内に「殉国十七士墓」と刻まれた大きな石が置かれています。十七士のお墓は、当初この宝積寺の境内にありましたが、、江戸幕府が倒れた明治元年(1868年)に十七烈士の墓は、現在の天王山の山頂近くへと移されました。
毎年10月21日は、十七烈士招魂祭が行われます。
霊山歴史館の木村武仁学芸員が、説明の合いの手で「真木和泉」を口にされ、印象に残ってます。私は、新撰組が 個人的に、好きです。絵本。「11匹のネコ」。φ(゜゜)ノ゜泉涌寺の方とかも 木村武仁学芸員が口にされてたので、ぶらぶらと 見に行きたいです。木村武仁学芸員は、お忙しいかもなので、なるべく、現地のガイドさんと 話は したいんです。、知識はないので、聞くだけなんですが。
こんにちは 橋本様
管理人です。
「禁門の変」の真木和泉のエピソードは印象的ですよね。
山崎にいくつか関連したスポットがありますので、ぶらぶらと楽しめると思います。
来られたら、阪急大山崎駅近くの大山崎町ふるさとセンターに大山崎町歴史資料館があります。そこにボランティアのガイドさんがだいたい常駐されておられます。
よければお立ち寄りください。
資料館共々、ぶらぶら見に来られるのであれば立ち寄ることをお勧め致します。
昨日お参りいたしました。何故長州藩氏以外の方々ばかりなのかと思いましたが納得しました。