千利休は安土桃山時代に織田信長、豊臣秀吉に仕えた堺出身の商人です。またわび茶の完成者として知られ、千家流茶道の始祖となり、茶聖とも称される人物です。

本名は田中与四郎、号は宗易(そうえき)といい、大阪堺の魚問屋に生まれます。若い頃から茶道に親しみ、店の跡取りとして教育を受けます。16歳頃から、北向道陳、武野紹鴎に師事し、茶の道を追及していました。

 

1568年に織田信長が自治都市堺に侵攻し、信長の直轄地となると、茶頭として雇われます。信長は文化の面でも日本の覇権を唱えており、利休ら茶の達人を重用しはじめます。信長は自分が許可した茶会しか認めない方策をとったため、その茶会での、茶の湯の指南役とした活躍した利休は、全国の大名や武士や承認から一目置かれる存在になっていきます。やがて、今井宗久・津田宗及と共に茶湯の天下三宗匠と呼ばれるようになります。

 

その後、本能寺の変が起こり信長が討たれると、後継者たる羽柴秀吉に仕えることになります。信長以上に茶道に熱心だった秀吉を支えます。正13年(1585年)10月には、居士号「利休」を勅賜されます。利休という名はこのとき拝命した名前で、それまでは宗易(そうえき)で通していたそうです。天正15年(1587年)の北野大茶会を開きます。茶人として最大の名声と権威を誇ることになります。

 

しかし、天正19年(1591年)に利休は秀吉の怒りにふれ、蟄居を命じられます。やがて利休は聚楽屋敷内で切腹を命じられました。享年70歳でした。秀吉の怒りの理由は、堺の権益を守ろうとした説や、私腹を肥やした疑い、茶道に対する考え方で対立したなどがあります。秀吉の黄金の茶室などの秀吉の金ピカの派手な趣味と利休のわび数寄の事を考えると、秀吉と利休との対立は時間の問題だったのかもしれません。

 

利休の茶の湯の重要な点は、当時の主流であった名物(を否定したことにあります。また、草庵茶室の創出したこともあげられます。JR山崎駅前の妙喜庵には利休が残した唯一の茶室と考えられているた二畳敷の小さな茶室「待庵」(国宝)が残っています。無駄を削ぎ落とした究極の茶室として、利休の合理性と自由な考えを表すものとされています。(※待庵の拝観には往復はがきでの予約が必要です)なお、大山崎歴史資料館では原寸大の待庵のモデルがあります。


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