山崎2大セレブ。藤井厚二は建築家であり建築学者。建築環境工学の開拓者の一人として知られます。山崎の地に1万2千平方メートルの土地を購入(ちょうどアサヒビール山崎山荘美術館敷地のすぐ隣あたり)し、そこで、ほぼ2年ごと計4回、自邸の建て替えを行い、自らが暮らす生活実験を繰り返していました。現存する建物、「聴竹居」はその第4回目の自宅として知られ日本建築100選に選ばれています。
略歴
藤井厚二
藤井厚二は1888年(明治21年)の広島県生まれ、実家は十数代続く造酒屋「くろがねや」の次男として生まれ、幼少の頃から、藤井家が所蔵していた第1級の絵画や書、茶道など親しんでいたといいます。
福山中学、岡山の第六高等学校を卒業後、藤井厚二は東京帝国大学工科大学建築学科に進みます。大学では、「法隆寺建築論」を発表し、最初の建築史家である伊藤忠太に学びます。西洋一辺倒であった当事の建築のスタイルから脱し、日本独自の様式建築を追い求めた伊藤忠太の思想に影響されたと考えられます。
卒業後は、設計の近代化を進めていた「竹中工務店」に入社。「大阪朝日新聞社社屋」や「村山龍平邸」や橋本汽船ビルなどを担当します。1919年には竹中工務店を退職し、欧米を視察、諸設備や住宅研究を行っています。
1920年、朝日新聞社社屋建設の際に、知り合った関西の雄、建築家武田五一が創設した京都帝国大学工学部建築学科に講師として招かれ、翌年助教授となります。
この年から、大山崎に1万2000坪の土地に、(実験住宅)として、第2回藤井邸、第3回、第4回、第5回(聴竹居)と次々に自邸を建設していきます。
藤井厚二は、竹中工務店時代を含めると、25年間に50を超える建物を設計しましたが、1937年に直腸がんを宣告され、中田邸(扇葉荘)が遺作となりました。49年という短い生涯で、お墓は自らデザインし、京都嵯峨野の二尊院で眠りについています。お墓の周辺の写真をいらししましたが、長女が撮影した写真の現像を待たずに亡くなったといいます。
作品のほとんどが、個人住宅であるために目立たず、解体され、ほとんど残っていないものの、「其の国の代表する建築は住宅建築である」という言葉と共に、自然を意識し環境工学の知見を生かしたその思想は、現代の建築家や住宅にに強い影響を残しました。
代表的な建築物
聴竹居(1928年)現存 |
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山崎にある聴竹居は理想的な保存状態にあります。聴竹居を訪れば、その優れた設計と工夫に驚かされると共に、家族思いであった藤井厚二にふれることができます。バリアフリー設計や家族同士で目があうために工夫。そして、残された幸せそうな家族写真を見ると、とても大柄で180センチはあったと思われます。
参考/参照:聴竹居パンフレット 大阪くらしの今昔館(聴竹居と藤井厚二展)