山崎の地は、古代から、中国大陸から大和平野へ「文化」が流れ込む「シルクロードの延長線」上に位置していました。平城京、長岡京、平安京の外港として淀川水運の要である山崎津(港)があり山陽道(西国街道)が通る等、水陸交通の要衝でした。

 

先土器時代

山崎の地に人が住み始めたのは、約2万年前の氷河期のころであったと思われます。
集落が営まれ、山崎西遺跡で出土したサヌカイトとよぶ火山岩から作ったナイフ形の石器(国府型)が発見されたことから想定されます。
また、大山崎町の山崎聖天付近(山崎東遺跡)でも同じようなナイフ石器が出土し、島本町と大山崎町にかけて広範囲で人が暮らしていたのではないかと考えられています。
 

弥生時代

山崎は当初は小さな寒村だったようです。桜井のあたりと淀川沿岸に村ができ、低湿地で米作りがはじまりました。6世紀ごろには、桜井の村の有力な戸主と、その家族を葬った超谷、源ご山、神内の各古墳群が気付かれるようになりました。そこから須恵器が出土しています。
 

古代 奈良時代

この時期には、民衆を救うために畿内をめぐった行基の活動がみかけられます。山崎の地でも、山崎橋をかけたり、西観音寺、勝帆寺、釈恩寺山崎院、宝積寺(宝寺)を開基したり、西八王子社(若山神社)。小鳥大明神(小鳥神社)を建てたと伝えられています。
また、奈良に都が移された翌年、711年に都の出入り口に利用される主要な駅(都亭駅)として、岡本、山本、樟葉、大原、殖村などの駅がおかれました。
大原駅は、桜井付近と推定されています(現在は桜井駅跡公園)樟葉から淀川を渡り、西へ向かうと桜井であることから妥当をいえます。なお、この駅は平安時代には水運が重視されるようになり、9世紀末までには廃止されました。 

 

平安時代

 
延暦4年(785)三国川の開通により、山崎の津(港)は長岡京、続いて平安京の外港となりました。港を中心に物資が運び込まれ、この地もいよいよ栄え始めます。人が往来し、淀川の水運を利用した物流の要としておおいに賑わいました。倉や商家が立ち並び大変にぎわったと推測されます。
 

 
また、山路には山崎の駅が置かれ、このころは淀川に橋(山崎橋)がかかっていました。京や難波と肩を並べる酒造業者や、山崎長者のような油しばり業者がみられました。この繁栄は平安末期まで続いたとされています。山崎には関もおかれました。非常の時には都を守る警護の兵が守りにつく場所でした。現在は関大明神社として残っています。この頃の仏像として、十一面観音像や聖徳太子像、薬師如来像があります。
 
桜井の待宵小侍従が活躍したのものこの時代です。1650年に碑が建てられました。大正のころまで五輪の石塔がたっていたそうです。
 

中世鎌倉時代

水無瀬(殿)後の水無瀬神宮が建てられたのはこの頃です。後鳥羽上皇は、水無瀬川右岸、淀川との合流点付近に水無瀬殿を造営しました。
しかし、増水で壊れたため山手に移ったとされます。(百山付近)
後鳥羽上皇は、承久の乱(1221年)に敗れ、隠岐に19年の配流の身となり、ばんねんに水無瀬信成、親成親子に残した御朱印置文(国宝)に基づいて、水無瀬離宮の跡に御影堂を建てました。堂内には肖像がを安置し(後鳥羽天皇像(国宝)と後鳥羽院法体像)菩提をとむらいました。
この御影堂が明治6年に水無瀬宮となり、昭和14年に水無瀬神宮と改称されました。
 
「太平記」によると、延元元年(1336年)2月、九州へ敗走した足利尊氏は、その後勢いを盛り返し、大軍を率いて東上してきました。
楠木正成は、これを迎え撃つ献策をします。一度都から撤退し気をみて奪い返す算段です。しかし、これが受け入れられず。5月16日に足利尊氏を迎え撃つべく、不利な戦場である兵庫へ向かいます。正成はこれが自分の最後の戦場になると思い、わが子である正行を桜井の宿から河内に帰るよういいました。 
「わしが討ち死にした後、尊氏の世になっても降参することなく、一族のうち一人でも生き残っている間は、足利と戦え」と言い聞かせたと言います。
桜井跡公園には碑が建っています。
 
また、平安時代から続いていた山崎のエゴマを原料とした油しぼりは、鎌倉時代に入って生産量が増えてきます。八幡宮の神人がえごま油の油座を設け、岩清水八幡宮神人として、神事に奉仕。八幡宮の権威を利用して西日本一帯の独占販売権を獲得し繁栄していました。当時の繁栄ぶりが信貴山縁起絵巻等にうかがわれます。承久の乱後は調停や幕府の保護を受け、商圏は東は美濃、西は肥後の国に及んだそうです。
 
大山崎神人は、また宮座という自治組織を結成し、15世紀には11の保の共同体(大山崎惣中)が成立しました。油座は室町時代に全盛期を迎えます。
 

室町時代

 
油しぼりで栄える山崎にこの時代に、俳諧の祖と呼ばれる山崎宗鑑が登場します。宗鑑は室町末期の連歌師で、「俳諧連歌抄」を選集して名を残しました。
書道でも宗鑑流の始祖として有名です。
 
山崎に住んだのは1502年頃とされますが、住居は宗鑑屋敷、妙喜庵など諸説があります。書道で身をたてていましたが、貧しかったのか豊だったのかわかっていません。1530年には讃岐の興昌寺に移りそこでなくなりました。
 

近世・安土桃山時代

 
秀吉と光秀が天下を賭けて争った「山崎合戦」が起こります。いわゆる「天王山の戦いです。本能寺の変で織田信長を討った、明智光秀を中国の毛利を攻めていた秀吉がすさまじい勢いで反転して明智光秀を破った戦いです。秀吉軍の高山右近は兵2000を率いて山崎に着陣。山崎の関を閉じていっさいの通行を遮断しました。戦いに勝った秀吉はこの地に山崎城を築き、翌年大阪城に移るまで在城しました。
 
また秀吉は朝鮮出兵のために、山崎に橋をかけます。吉川広家に命じてこの辺りの堤防の修復を行っています。秀吉が福島正則を造営奉行として建てたとされる水無瀬神宮客殿もこの時代のものです。
 

江戸時代

江戸時代の淀川には、三十石船が上下して、たいへんにぎわっていました。山崎には渡しが3つ(山崎の渡し、高浜の渡し、広瀬の渡し)ありました。
淀川はたびたび洪水をおこし、高浜村では南無堅牢地神碑を建てて、洪水のなくなることを祈りました。薬師如来像の頭部に黄土色の川泥がついていて、洪水にあったことが伺えます。
 
1712年には水無瀬川に水車がしかけられ、東大寺村の庄屋が油しぼりをしていました。また桜井焼を呼ばれる古曽部風の粗陶がはじめられましたが、3代で廃されています。
 
幕末には「禁門の変」など、多くの戦乱の舞台になりました。敗れた真木和泉が立てこもる天王山にたいして、新撰組含む幕府軍は砲撃を加えました。
このとき、民家のほとんどが焼失しましたが、旧社家の表門は、母屋から離れており焼け残りました。真木和泉はここで自害し、十七士の墓として残されています。
 

近代 明治〜昭和

 
慶応4年(1868年)に廃仏毀釈の嵐が山崎にも吹き荒れます。寺院の合併や廃絶が進められて、山崎では浄土院が廃絶されたため、本尊阿弥陀如来(重要文化財)は大念寺に移されました。西観音寺は椎尾神社に改変され、本堂は観音寺へ、閻魔堂と五冥官群像は、宝積寺(宝寺)へ移管されました。鐘は大阪の正宣寺に、後鳥羽院位碑は楽妙寺に移されました。また、西八王子社が若山神社と改称し、別当であった小鳥大明神社は小鳥神社と改められ、境内の地蔵堂は、水無瀬神宮前へ移されました。
 
明治4年(1871年)に廃藩置県が行われると、10月に仮の城摂国界の石標が水無瀬川の堤に建てられました。これによって山崎村の一部と東大寺村の41軒のうち、20軒が京都府に編入されてしまいました。これを不服として、東大寺村は、国界石標を明神川筋(関大明神社そば)に移すよう大阪府に願いでました(国界碑論争)東大寺村の願いは聞き届けられ、国界は明神川筋に定められ(現在も碑は残る)水無瀬側左岸の東大寺村は大阪府に編入されました。
この様子は「水無瀬橋付近絵図」と「城摂国境付近絵図」で移動したことが認められます。 

 
大正12年には寿屋(現サントリー)山崎工場が誕生します。15年には大日本紡績山崎工場が操業をはじめ、ほぼ農村だった村はは工業の街へと変わり始めました。そのため多くの人々が流入してきて、大正末から昭和初期までに人口が倍増しました。特に女性の急増がめだち、水無瀬から阪急大山崎駅あたりにかけての西国街道沿いには多くの商店が立ち並び、銀行や娯楽施設、料理店が立ち並んでいました。
 
参照:島本教育委員会「わが町島本」


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