国道171号線から、水無瀬交差点を左折してしばらく進むと、左に高浜砲台跡の案内板があります。そのまま歩き、高浜公会堂のすぐ横に、小さな薬師堂があります。その手前に、高浜砲台跡碑が立っています。
高浜砲台は、江戸末期に、徳川幕府が大坂湾から京都に侵入する外国船に備えて、淀川左岸の楠葉と右岸の高浜(島本町)に砲台(台場)を築き、翌年には楠葉関門を設けたとされています。
この楠葉と高浜の距離は大変狭く、川に向かい合う形で両岸に台場を据え、カノン砲4門を配置する事で川を通り抜ける船を完全に掌握できたと想定されます。
高浜砲台と藤堂藩の帰順
慶応2年(1866年)10月、幕府の淀川制圧のため、高浜と対岸の楠葉に砲台を建設した。同4年正月3日鳥羽伏見の戦いに敗れた幕軍は、八幡、橋本、楠葉に集結し、薩長軍を迎撃しようとしていた。
当時幕命で山崎・高浜が藤堂藩、楠葉は酒井藩が守備していた。5日藤堂藩は勅使四条隆平に説得され帰順に決した。翌6日朝、対岸の幕軍に向かって、高浜砲台の新式四斤山砲は火を噴いた。
楠葉砲台も応戦し、夕刻まで砲戦は続いたが、幕軍は虚をつかれ、撤退していった。最後には船を漕ぎ出して、小銃で銃撃したそうです。
島本町教育委員会「史跡をたずねて」より
実際の高浜砲台は高浜砲台跡の場所でなく、淀川河川敷にあり、高さ八尺(約2.4m)、周囲100間(約180m)の規模であったされています。現在は、淀川改修のためこわされ、ゴルフ場になりましたが、そのゴルフ場も無くなり、今はヨシの群生地となってます。河川敷に台場の雰囲気はまったくありませんが、壮観な眺めになっています。
高浜砲台跡碑は、史跡巡りコースなど、ハイキングコースの指定場所です。淀川の河川敷を南下し、三川合流の完了する付近近くの階段から降りてくるコースです。なお、薬師堂は江戸時代に妙法寺があり、そのお堂だったといわれます。今は常春寺がお守りしていて、堂は昭和39年建立のものです。
場所
〒618-0012 大阪府三島郡島本町高浜1丁目