待宵小侍従は、「平家物語」にも登場する平安ー鎌倉初期の有名な女流歌人です。
「新古今集」などの勅撰集に数多く入集し、家集に「小侍従集」があります。
待宵という異名は「恋人の来るのを待つ夕べと帰って行く朝では何れが哀れはまさる」
と大宮(多子)からお尋ねを受け、
待宵の 更けゆく鐘の 声聞けば
帰る朝の 鳥は物かは
と答えたので大宮は彼女を「待宵」と呼ぶようになったそうです
待宵は岩清水八幡宮別当光清の娘で、母は花園左大臣家女房小大進です。39歳の頃、夫の藤原伊実と死別しました。そのあと、二条天皇、皇后藤原多子、高倉天皇に仕え、晩年は出家して桜井に住んでいたといわれています。
山崎には待宵小侍従の墓と顕彰碑が残っています。島本駅の北西、かつては「苔山」とか「待宵の丘」と呼ばれていました。昔は名神高速道路の真ん中辺りにあって、工事の際にこの場所にうつされたそうです。跡地は座るところもあり、正面には池が広がっていて、ハイキングの途中の休憩スポットの雰囲気があります。(自販機やゴミ箱などはありません)工事前には、側には松の木があったそうですが、枯れてしまいました。
ふれあいセンターに道しるべが建っています。ここから500メートルほど歩いていきます。
右側は名神高速道路があり、左側には工場が建っていますので、歩く楽しさはあまりない場所ですが、時々視界が開けるところがあり、水無瀬や上牧といった町並みがみえます。
慶安3年に高槻藩主永井直清は、墓のそばに顕彰碑を建てました。そのそばには大正のころまでは五輪の石塔が建っていました。今は、水輪が一つだけ残るのみです。
小侍従顕彰碑の前に残る池が、御所ヶ池です。今は名残もありません。
より大きな地図で 待宵小侍従墓・顕彰碑 を表示