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	<title>山崎観光案内所　 &#187; 人物</title>
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	<description>自然とウィスキーと歴史の街、京都大山崎、島本水無瀬地区の私的観光案内サイトです。観光情報・名所・スポットをご紹介します。</description>
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		<title>真木和泉</title>
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		<pubDate>Mon, 12 Nov 2012 01:50:09 +0000</pubDate>
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		<description><![CDATA[1813年、文化10年3月7日生まれ、早くから江戸、 水戸に遊学して尊王攘夷運動に活躍しており、「大夢記」「義挙三策」などを著し、尊穣実践に理論的根拠を与えた人物です。江戸幕末安政の大獄によって吉田松陰・橋本左内の指導者 &#8230; <a href="https://oyamazaki.info/archives/1893">続きを読む <span class="meta-nav">&#8594;</span></a>]]></description>
				<content:encoded><![CDATA[<p><a href="https://oyamazaki.info/wp/wp-content/uploads/2012/11/p08-b.jpg"><img src="https://oyamazaki.info/wp/wp-content/uploads/2012/11/p08-b.jpg" alt="" title="p08-b" width="200" height="182" class="alignleft size-full wp-image-2018" /></a><br />
1813年、文化10年3月7日生まれ、早くから江戸、 水戸に遊学して尊王攘夷運動に活躍しており、「大夢記」「義挙三策」などを著し、尊穣実践に理論的根拠を与えた人物です。江戸幕末安政の大獄によって吉田松陰・橋本左内の指導者を失った後の尊攘派を形而上下にわたり先達として指導したことで知られます。</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>薩摩藩の大久保利通（一蔵）らと、最高権力者である島津久光を擁立しての上洛を計画し、久光が上京すると京で活動します。久光には倒幕の意思はなく、不満に思う真木和泉等と対立、動きを抑えようとした久光側と激しい同士討ちの斬りあいに発展しました。（寺田屋事件）&nbsp;<br />
事件後、長州藩に接近した真木和泉は、長州藩が京の主導権を挽回しようとした争いである禁門の変に参加しますが、敗退。最後は逃げる長州軍等の殿を勤め、幕府軍の迫る天王山に篭城します。幕府の包囲攻撃を受けると同士１６名と共に自害しました。５２歳でした。<br />
&nbsp;<br />
辞世は｢大山の峰の岩根に埋めにけりわが年月の大和魂｣<br />
&nbsp;<br />
天王山の山頂近くに<a href="https://oyamazaki.info/archives/180">十七烈士の墓</a>があり、年１０月２１日は、十七烈士招魂祭が行われます。</p>
<p>&nbsp;<br />
また、福岡県久留米市にある水天宮には<a href="http://www.suitengu.net/keidai.html">真木和泉守記念館</a>があります。</p>
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		<title>豊臣（羽柴）秀吉</title>
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		<pubDate>Thu, 08 Nov 2012 01:12:57 +0000</pubDate>
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				<category><![CDATA[人物]]></category>
		<category><![CDATA[秀吉]]></category>

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		<description><![CDATA[戦国の世を事実上統一した人物、豊臣（羽柴）秀吉。三英傑の一人。 豊臣秀吉は、織田信長に仕官し活躍、信長の死後は跡をついて日本を統一して、関白となり朝鮮、明にまで領地を広げようとしました。下層民の家の出から下克上の世の中で &#8230; <a href="https://oyamazaki.info/archives/1891">続きを読む <span class="meta-nav">&#8594;</span></a>]]></description>
				<content:encoded><![CDATA[<p><a href="https://oyamazaki.info/wp/wp-content/uploads/2012/11/Toyotomi_hideyoshi.jpg"><img src="https://oyamazaki.info/wp/wp-content/uploads/2012/11/Toyotomi_hideyoshi-212x300.jpg" alt="" title="Toyotomi_hideyoshi" width="212" height="300" class="alignleft size-medium wp-image-1983" /></a></p>
<p>戦国の世を事実上統一した人物、豊臣（羽柴）秀吉。三英傑の一人。<br />
豊臣秀吉は、織田信長に仕官し活躍、信長の死後は跡をついて日本を統一して、関白となり朝鮮、明にまで領地を広げようとしました。下層民の家の出から下克上の世の中で、一夜城や金ヶ崎の退き口など、数々の逸話を残し戦国一の出世頭と呼べる人物です。</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>秀吉とここ山崎との一番の関連は、山崎の戦い（天王山の戦い）が起こったことにあります。山崎の戦いは、天正10年（1582年）6月2日、明智光秀によって起こった信長に対する謀反（本能寺の変）にはじまり、秀吉の驚異的な行軍（中国大返し）があった後で、直接の武力対決が最終的に起こります。6月13日にここ山崎で明智軍と秀吉軍の両軍が激突する結果となりました。</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>戦略上の優勢により、軍勢の数の上で勝る秀吉軍（明智軍の3倍、4倍だったと言われています）が、明智軍を、数時間で打ち破り、信長の後継者として位置づけられることが決定的になった戦いでした。敗れた明智光秀は落ち武者狩りにあい、竹林で命を落としたとされています。</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>さらに、秀吉は大阪城が完成する天正11年（1583年）まで、1年ほどこの山崎に留まっています。天王山の山頂に山崎城を築城（もともとあった砦を再構築した説あり）して本拠とし、信長の重臣だった柴田勝家や残る敵と戦いながら、城下に千利休などの茶人を呼んで茶会をしていました。</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>山崎には、この地に滞在した秀吉ゆかりの場所や観光スポットがいくつか残っています。<br />
&nbsp;<br />
・<a href="https://oyamazaki.info/archives/722">秀吉の道</a><br />
・<a href="https://oyamazaki.info/archives/1239">旗立松展望台</a><br />
・<a href="https://oyamazaki.info/archives/1342">天王山山頂（山崎城跡）</a><br />
・<a href="https://oyamazaki.info/archives/761">妙喜庵</a><br />
&nbsp;</p>
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		<title>千利休</title>
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		<pubDate>Fri, 16 Nov 2012 05:37:25 +0000</pubDate>
		<dc:creator><![CDATA[yamazakilove]]></dc:creator>
				<category><![CDATA[人物]]></category>
		<category><![CDATA[千利休]]></category>
		<category><![CDATA[妙喜庵]]></category>
		<category><![CDATA[待庵]]></category>

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		<description><![CDATA[千利休は安土桃山時代に織田信長、豊臣秀吉に仕えた堺出身の商人です。またわび茶の完成者として知られ、千家流茶道の始祖となり、茶聖とも称される人物です。 本名は田中与四郎、号は宗易（そうえき）といい、大阪堺の魚問屋に生まれま &#8230; <a href="https://oyamazaki.info/archives/1889">続きを読む <span class="meta-nav">&#8594;</span></a>]]></description>
				<content:encoded><![CDATA[<p><a href="https://oyamazaki.info/wp/wp-content/uploads/2012/11/Sen_no_Rikyu.jpg"><img class="alignleft size-full wp-image-2065" title="Sen_no_Rikyu" src="https://oyamazaki.info/wp/wp-content/uploads/2012/11/Sen_no_Rikyu.jpg" alt="" width="211" height="231" /></a>千利休は安土桃山時代に織田信長、豊臣秀吉に仕えた堺出身の商人です。またわび茶の完成者として知られ、千家流茶道の始祖となり、茶聖とも称される人物です。</p>
<p>本名は田中与四郎、号は宗易（そうえき）といい、大阪堺の魚問屋に生まれます。若い頃から茶道に親しみ、店の跡取りとして教育を受けます。16歳頃から、北向道陳、武野紹鴎に師事し、茶の道を追及していました。</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>1568年に織田信長が自治都市堺に侵攻し、信長の直轄地となると、茶頭として雇われます。信長は文化の面でも日本の覇権を唱えており、利休ら茶の達人を重用しはじめます。信長は自分が許可した茶会しか認めない方策をとったため、その茶会での、茶の湯の指南役とした活躍した利休は、全国の大名や武士や承認から一目置かれる存在になっていきます。やがて、今井宗久・津田宗及と共に茶湯の天下三宗匠と呼ばれるようになります。</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>その後、本能寺の変が起こり信長が討たれると、後継者たる羽柴秀吉に仕えることになります。信長以上に茶道に熱心だった秀吉を支えます。正13年（1585年）10月には、居士号「利休」を勅賜されます。利休という名はこのとき拝命した名前で、それまでは宗易（そうえき）で通していたそうです。天正15年（1587年）の北野大茶会を開きます。茶人として最大の名声と権威を誇ることになります。</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>しかし、天正19年（1591年）に利休は秀吉の怒りにふれ、蟄居を命じられます。やがて利休は聚楽屋敷内で切腹を命じられました。享年70歳でした。秀吉の怒りの理由は、堺の権益を守ろうとした説や、私腹を肥やした疑い、茶道に対する考え方で対立したなどがあります。秀吉の黄金の茶室などの秀吉の金ピカの派手な趣味と利休のわび数寄の事を考えると、秀吉と利休との対立は時間の問題だったのかもしれません。</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>利休の茶の湯の重要な点は、当時の主流であった名物（を否定したことにあります。また、草庵茶室の創出したこともあげられます。ＪＲ山崎駅前の<a href="https://oyamazaki.info/archives/761">妙喜庵</a>には利休が残した唯一の茶室と考えられているた二畳敷の小さな茶室「待庵」（国宝）が残っています。無駄を削ぎ落とした究極の茶室として、利休の合理性と自由な考えを表すものとされています。（※待庵の拝観には往復はがきでの予約が必要です）なお、<a href="https://oyamazaki.info/archives/660">大山崎歴史資料館</a>では原寸大の待庵のモデルがあります。</p>
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		<title>山崎宗鑑</title>
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		<pubDate>Mon, 12 Nov 2012 01:20:38 +0000</pubDate>
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				<category><![CDATA[人物]]></category>

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		<description><![CDATA[室町時代の俳諧作者で、寛正６年(1465)、近江国滋賀で生まれたとされますが、本名・出自については定かではありません。俳諧撰集「犬筑波集」を残し、高踏的な連歌に対し,庶民世界を面白く詠みあげており,近世俳諧の先駆をなすも &#8230; <a href="https://oyamazaki.info/archives/1885">続きを読む <span class="meta-nav">&#8594;</span></a>]]></description>
				<content:encoded><![CDATA[<p><a href="https://oyamazaki.info/wp/wp-content/uploads/2012/11/004-2.jpg"><img src="https://oyamazaki.info/wp/wp-content/uploads/2012/11/004-2.jpg" alt="" title="004-2" width="250" height="246" class="alignleft size-full wp-image-2012" /></a><br />
室町時代の俳諧作者で、寛正６年(1465)、近江国滋賀で生まれたとされますが、本名・出自については定かではありません。俳諧撰集「犬筑波集」を残し、高踏的な連歌に対し,庶民世界を面白く詠みあげており,近世俳諧の先駆をなすものであり、江戸時代初期の談林俳諧に影響を与え。交流のあった荒木田守武とともに、俳諧の祖と称されています。</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>山崎宗鑑の「山崎」はここ山崎の地名からきています。<br />
室町幕府9代将軍である足利義尚に仕えていましたが、義尚の陣没（延徳元年、1489年）後出家し、山崎を訪れました。（３０歳前後とされる）、当時繁栄していた山崎油神人の元で連歌講の中心人物になり、山崎の地に隠棲します。宗鑑はこの付近にあったとされる冷（霊）泉庵で連歌の会を開いたり、俳句の指導をしていたとされています。また書にも優れ、生計は書を売ることによって立てていたともいわれ、宗鑑流として多くの人々に愛されました。</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>山崎宗鑑は大永3年(1523年)ごろ山崎の地を去りますが、この時暮らしていた「宗鑑井戸」「宗鑑旧居跡」が今も残されています。</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>晩年は（香川県観音寺市）の興昌寺に庵「一夜庵」（一夜以上の宿泊客を認めなかったそうです）にて、天文九年（1540）に生涯を終えたといわれています。</p>
<p>天王山の登山口に<a href="https://oyamazaki.info/archives/173">山崎宗鑑句碑</a>が建てられています。句碑には宗鑑の句「うずききてねぶとに鳴や郭公」が彫られています。</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>一夜庵の情報はこちら&gt;&gt; <a href="http://kanonji-kankou.jp/visit/01/004.html">香川県観音寺市 かんおんじ観光ガイド　<br />
</a></p>
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		<title>行基</title>
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		<pubDate>Thu, 15 Nov 2012 00:43:25 +0000</pubDate>
		<dc:creator><![CDATA[yamazakilove]]></dc:creator>
				<category><![CDATA[人物]]></category>
		<category><![CDATA[行基]]></category>

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		<description><![CDATA[行基は,奈良時代の天智天皇7年（668年）生まれの僧で、仏教の一般民衆への布教を禁じた時代に、禁を破り畿内を中心に民衆や豪族層を問わず広く仏法の教えを説き人々より篤く崇敬されました。 &#160; また、教えを説くだけで &#8230; <a href="https://oyamazaki.info/archives/1738">続きを読む <span class="meta-nav">&#8594;</span></a>]]></description>
				<content:encoded><![CDATA[<p>行基は,奈良時代の天智天皇7年（668年）生まれの僧で、仏教の一般民衆への布教を禁じた時代に、禁を破り畿内を中心に民衆や豪族層を問わず広く仏法の教えを説き人々より篤く崇敬されました。</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>また、教えを説くだけでなく、畿内に数々の道場・寺や溜池、溝と堀、橋をかけ、貧民救済・治水・架橋などの社会事業に活動していました。当初は政府により弾圧を受けていましたが、次第に軟化、740年には聖武天皇により奈良の大仏建立の実質的な責任者となりました。745年には、朝廷より日本最初の大僧正の位を贈られています。</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>行基が山崎を訪れたのは、724年頃とされています。当時かかっていた、川にかかっていた山崎橋を復活させ、その管理も兼ねて山崎院を建立しました。山崎橋も山崎院も現在は残っていませんが、出土した遺跡から<a href="https://oyamazaki.info/archives/1734">山崎院</a>の場所が特定され、石碑が建てられています。</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>さらに、この地に西本願を（明治時代に解体）勝帆寺、釈恩寺山崎院、宝積寺（宝寺）、西八王子社（若山神社）。小鳥大明神（小鳥神社）を建立するなど山崎の地に、多大な貢献を行いました。</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>大仏造営中の749年（天平21年）、菅原寺で81歳で亡くなるまで日本全国を歩き回り、民衆のために尽くしました。</p>
]]></content:encoded>
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		<title>明智光秀</title>
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		<pubDate>Wed, 14 Nov 2012 01:10:01 +0000</pubDate>
		<dc:creator><![CDATA[yamazakilove]]></dc:creator>
				<category><![CDATA[人物]]></category>
		<category><![CDATA[山崎の戦い]]></category>

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		<description><![CDATA[安土桃山時代の戦国の武将。「本能寺の変」を起こした武将である。 青年期は諸説あるものの、斎藤道三、朝倉義景に仕えた後に、永禄12年（1569年）頃から織田信長の直臣となる。織田信長の家臣となって、比叡山焼き討ちなど各地で &#8230; <a href="https://oyamazaki.info/archives/1512">続きを読む <span class="meta-nav">&#8594;</span></a>]]></description>
				<content:encoded><![CDATA[<p><a href="https://oyamazaki.info/wp/wp-content/uploads/2012/11/Akechi_Mituhide.jpg"><img src="https://oyamazaki.info/wp/wp-content/uploads/2012/11/Akechi_Mituhide-263x300.jpg" alt="" title="Akechi_Mituhide" width="200"  class="alignleft size-medium wp-image-2037" /></a><br />
安土桃山時代の戦国の武将。「本能寺の変」を起こした武将である。<br />
青年期は諸説あるものの、斎藤道三、朝倉義景に仕えた後に、永禄12年（1569年）頃から織田信長の直臣となる。織田信長の家臣となって、比叡山焼き討ちなど各地で武功を上げ、近江国の滋賀郡に所領を与えられ、坂本城を築いて居城としました。<br />
&nbsp;<br />
その後も、石山本願寺や荒木村重と松永久秀等、信長に抵抗をみせる武将を討伐、近畿の各地を転戦しつつ、丹波国の攻略を最後に近畿を平定し、丹波一国（約29万石）を与えられ計34万石となり、信長の重臣としての地位を固めました。</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>しかし、天正10年（1582年）6月2日に、自分を取り立ててくれた主君である信長を本能寺で討ち滅ぼします。なぜ明智光秀が織田信長を討ったのか、この事件は今でも日本史の謎の一つとされています。怨恨によるもの、義憤によるもの、新しい考え方についていけなかった説、陰謀説など、多々異論があり、確固たる原因や理由が結論としては未だに出ていません。</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>本能寺の変後、信長の後継者となることを目指しますが、中国からの予想外の撤兵を見せた豊臣（羽柴）秀吉と、ここ山崎で戦い（天王山の戦い）敗退しました。居城である坂本城に逃げる途中、落ち武者狩にあって落命したとされています。</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>そうした経緯から、明智光秀は長らく主君殺しの裏切り者の代表として、汚名をかぶってきました。また本能寺の変後に、征夷大将軍の宣下を受けたという話があり、そこから、たったの3日で天下を失った「三日天下」という言葉が生まれる不名誉な人物になりました。（実際は、11日ないし12日間の天下）</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>しかし、最近の研究によって、才知、深慮、狡猾で裏切りや密会を好むという人物像に変化してきました。光秀は諸学に通じ、和歌・茶の湯を好んだ文化人として、内政手腕に優れ、領民を愛して善政を布いたことがクローズアップされるようにもなりました。</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>山崎には光秀ゆかりの地として、布陣図が俯瞰で確認できる<a href="https://oyamazaki.info/archives/1239">旗立松</a>があり、<a href="https://oyamazaki.info/archives/660">大山崎町歴史資料館</a>では山崎の戦いの詳しい説明をみることができます。</p>
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		</item>
		<item>
		<title>藤井厚ニ（ふじい こうじ）</title>
		<link>https://oyamazaki.info/archives/846</link>
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		<pubDate>Mon, 22 Oct 2012 05:39:10 +0000</pubDate>
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				<category><![CDATA[人物]]></category>
		<category><![CDATA[聴竹居]]></category>

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		<description><![CDATA[山崎２大セレブ。藤井厚二は建築家であり建築学者。建築環境工学の開拓者の一人として知られます。山崎の地に1万2千平方メートルの土地を購入（ちょうどアサヒビール山崎山荘美術館敷地のすぐ隣あたり）し、そこで、ほぼ2年ごと計4回 &#8230; <a href="https://oyamazaki.info/archives/846">続きを読む <span class="meta-nav">&#8594;</span></a>]]></description>
				<content:encoded><![CDATA[<p><a href="https://oyamazaki.info/wp/wp-content/uploads/2012/10/chochiku_21.jpg"><img src="https://oyamazaki.info/wp/wp-content/uploads/2012/10/chochiku_21.jpg" alt="" title="chochiku_21" width="150"  class="alignleft size-full wp-image-1459" /></a>山崎２大セレブ。藤井厚二は建築家であり建築学者。建築環境工学の開拓者の一人として知られます。山崎の地に1万2千平方メートルの土地を購入（ちょうどアサヒビール山崎山荘美術館敷地のすぐ隣あたり）し、そこで、ほぼ2年ごと計4回、自邸の建て替えを行い、自らが暮らす生活実験を繰り返していました。現存する建物、「聴竹居」はその第4回目の自宅として知られ日本建築100選に選ばれています。</p>
<p>&nbsp;</p>
<h4>略歴</h4>
<p><strong>藤井厚二</strong></p>
<p>藤井厚二は１８８８年（明治２１年）の広島県生まれ、実家は十数代続く造酒屋「くろがねや」の次男として生まれ、幼少の頃から、藤井家が所蔵していた第１級の絵画や書、茶道など親しんでいたといいます。</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>福山中学、岡山の第六高等学校を卒業後、藤井厚二は東京帝国大学工科大学建築学科に進みます。大学では、｢法隆寺建築論」を発表し、最初の建築史家である伊藤忠太に学びます。西洋一辺倒であった当事の建築のスタイルから脱し、日本独自の様式建築を追い求めた伊藤忠太の思想に影響されたと考えられます。</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>卒業後は、設計の近代化を進めていた「竹中工務店」に入社。「大阪朝日新聞社社屋」や「村山龍平邸」や橋本汽船ビルなどを担当します。１９１９年には竹中工務店を退職し、欧米を視察、諸設備や住宅研究を行っています。</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>１９２０年、朝日新聞社社屋建設の際に、知り合った関西の雄、建築家武田五一が創設した京都帝国大学工学部建築学科に講師として招かれ、翌年助教授となります。</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>この年から、大山崎に１万２０００坪の土地に、（実験住宅）として、第２回藤井邸、第３回、第４回、第５回（聴竹居）と次々に自邸を建設していきます。</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>藤井厚二は、竹中工務店時代を含めると、２５年間に50を超える建物を設計しましたが、１９３７年に直腸がんを宣告され、中田邸（扇葉荘）が遺作となりました。４９年という短い生涯で、お墓は自らデザインし、京都嵯峨野の二尊院で眠りについています。お墓の周辺の写真をいらししましたが、長女が撮影した写真の現像を待たずに亡くなったといいます。</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>作品のほとんどが、個人住宅であるために目立たず、解体され、ほとんど残っていないものの、「其の国の代表する建築は住宅建築である」という言葉と共に、自然を意識し環境工学の知見を生かしたその思想は、現代の建築家や住宅にに強い影響を残しました。</p>
<p>&nbsp;</p>
<h4>代表的な建築物</h4>
<table>
<tr>
<td>
<p>大阪朝日新聞社屋（1916年）<br />
<a href="https://oyamazaki.info/wp/wp-content/uploads/2012/10/chochiku_11.jpg"><img src="https://oyamazaki.info/wp/wp-content/uploads/2012/10/chochiku_11.jpg" alt="" title="chochiku_11" width="250" height="190" class="alignleft size-full wp-image-1445" /></a></p>
</td>
<td>
<p>村山邸（1919年）<br />
<a href="https://oyamazaki.info/wp/wp-content/uploads/2012/10/chochiku_13.jpg"><img src="https://oyamazaki.info/wp/wp-content/uploads/2012/10/chochiku_13.jpg" alt="" title="chochiku_13" width="247" height="184" class="alignright size-full wp-image-1446" /></a></p>
</td>
</tr>
<tr>
<td>
<p>第三回住宅（1922年）<br />
<a href="https://oyamazaki.info/wp/wp-content/uploads/2012/10/chochiku_14.jpg"><img src="https://oyamazaki.info/wp/wp-content/uploads/2012/10/chochiku_14.jpg" alt="" title="chochiku_14" width="250" height="177" class="alignleft size-full wp-image-1447" /></a></p>
</td>
<td>
<p>明海ビルジング（1921年）<br />
<a href="https://oyamazaki.info/wp/wp-content/uploads/2012/10/chochiku_15.jpg"><img src="https://oyamazaki.info/wp/wp-content/uploads/2012/10/chochiku_15.jpg" alt="" title="chochiku_15" width="250" height="187" class="aligncenter size-full wp-image-1743" /></a>
</p>
</td>
</tr>
<tr>
<td>
<p>聴竹居（1928年）現存<br />
<img src="https://oyamazaki.info/wp/wp-content/uploads/2012/09/chochiku_041.jpg" alt="聴竹居" width="250px"/>
</p>
</td>
<td>
<p>八木邸（1930年）<br />
<a href="https://oyamazaki.info/wp/wp-content/uploads/2012/10/chochiku_19.jpg"><img src="https://oyamazaki.info/wp/wp-content/uploads/2012/10/chochiku_19.jpg" alt="" title="chochiku_19" width="246" height="186" class="alignright size-full wp-image-1450" /></a>
</p>
</td>
</tr>
<tr>
<td>
<p>第三回住宅（1922年）<br />
<a href="https://oyamazaki.info/wp/wp-content/uploads/2012/10/chochiku_14.jpg"><img src="https://oyamazaki.info/wp/wp-content/uploads/2012/10/chochiku_14.jpg" alt="" title="chochiku_14" width="250" height="177" class="alignleft size-full wp-image-1447" /></a></p>
</td>
<td>
<p>大覚寺心経殿（1925年）<br />
<a href="https://oyamazaki.info/wp/wp-content/uploads/2012/10/chochiku_16.jpg"><img src="https://oyamazaki.info/wp/wp-content/uploads/2012/10/chochiku_16.jpg" alt="" title="chochiku_16" width="245" height="182" class="alignright size-full wp-image-1448" /></a>
</p>
</td>
</tr>
<tr>
<td>
<p>野々村邸（1934年）<br />
<a href="https://oyamazaki.info/wp/wp-content/uploads/2012/10/chochiku_20.jpg"><img src="https://oyamazaki.info/wp/wp-content/uploads/2012/10/chochiku_20.jpg" alt="" title="chochiku_20" width="252" height="187" class="alignnone size-full wp-image-1451" /></a>
</p>
</td>
<td>
<p>扇葉荘（1937年）<br />
<a href="https://oyamazaki.info/wp/wp-content/uploads/2012/10/chochiku_18.jpg"><img src="https://oyamazaki.info/wp/wp-content/uploads/2012/10/chochiku_18.jpg" alt="" title="chochiku_18" width="251" height="191" class="alignnone size-full wp-image-1452" /></a>
</p>
</td>
</tr>
</table>
<p>&nbsp;</p>
<p>山崎にある<a href="https://oyamazaki.info/archives/472">聴竹居</a>は理想的な保存状態にあります。聴竹居を訪れば、その優れた設計と工夫に驚かされると共に、家族思いであった藤井厚二にふれることができます。バリアフリー設計や家族同士で目があうために工夫。そして、残された幸せそうな家族写真を見ると、とても大柄で１８０センチはあったと思われます。<br />
&nbsp;</p>
<p>&nbsp;</p>
<blockquote><p>参考/参照：聴竹居パンフレット　大阪くらしの今昔館（聴竹居と藤井厚二展）</p></blockquote>
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		<title>加賀正太郎</title>
		<link>https://oyamazaki.info/archives/1473</link>
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		<pubDate>Tue, 23 Oct 2012 02:08:55 +0000</pubDate>
		<dc:creator><![CDATA[yamazakilove]]></dc:creator>
				<category><![CDATA[人物]]></category>
		<category><![CDATA[アサヒビール大山崎山荘美術館]]></category>
		<category><![CDATA[加賀正太郎]]></category>

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		<description><![CDATA[山崎２大セレブの１人。加賀正太郎は、恵まれた経済力と卓越した才能によって証券業や山林経営、土地開発、ゴルフ場設計など様々な分野で経営の手腕を発揮した実業家である。また、趣味人としても１流であり、大山崎山荘（現アサヒビール &#8230; <a href="https://oyamazaki.info/archives/1473">続きを読む <span class="meta-nav">&#8594;</span></a>]]></description>
				<content:encoded><![CDATA[<p><a href="https://oyamazaki.info/wp/wp-content/uploads/2012/10/kagashoutarou.jpg"><img src="https://oyamazaki.info/wp/wp-content/uploads/2012/10/kagashoutarou.jpg" alt="" title="kagashoutarou" width="139" height="202" class="alignleft size-full wp-image-1484" /></a><br />
山崎２大セレブの１人。加賀正太郎は、恵まれた経済力と卓越した才能によって証券業や山林経営、土地開発、ゴルフ場設計など様々な分野で経営の手腕を発揮した実業家である。また、趣味人としても１流であり、大山崎山荘（現アサヒビール大山崎山荘美術館）を建築したことと、栽培した蘭をまとめた貴重な版画である「蘭花譜」を残したことで知られます。</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>加賀正太郎は、明治21年1月17日、大阪船場の富商加賀商店の長男として生まれます。加賀商店は江戸時代から両替商として、商売を行っていましたが、明治に入ると証券業に参入、成功を収めます。加賀正太郎の父である加賀市太郎は優れた経営者でありますが、正太郎が１２歳の時に死去。家督を相続しますが、母親の判断で成人するまでは、家業は継がないことになりました。</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>成長し、東京高等商業学校（現一橋大学）入学後、欧州に遊学します。43年ロンドンの日英博覧会見物の帰途で、そこでかねてより計画していたスイスアルプスの高峰・ユングフラ（４１５８ｍ）の登頂に成功。日本人初の快挙となります。その時の経験から、ヨーロッパの登山用具・装備を日本に紹介しました。</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>また、イギリス滞在中にキュー・ガーデンなどで蘭栽培を見学し、帰国。学業を終えると大阪に帰り1911年に家業を再開し、証券会社（加賀証券）を設立し成功を収めます。1934年には山崎蒸溜所を立ち上げたもののオーナーとの路線対立して離れた竹鶴政孝を支援して大日本果汁（後のニッカウヰスキー）創立に参加します。大日本果汁の筆頭株主となり、社内では御主人様と呼ばれていたそうです。</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>加賀正太郎は欧州遊学で見た蘭の美しさが忘れられず、当時、不可能と思われていた日本での栽培を試みるようになります。さらに、山崎の地にウィンザー城からの眺めに似た情景が望めるとして、山荘を２０年がかりで建築します。それが大山崎山荘で、道路、建物、庭園、植樹など全て加賀正太郎の設計によるものでした。</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>大山崎山荘建築と平行して、蘭の本格的な栽培に乗り出します。山荘内に温室を作り、そこで、約1万鉢、人工交配による新種が1140種という成果を生み出します。その中から選りすぐりの１０４種の蘭の絵をおさめた木版画の『蘭花譜』を自費出版しました。</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>しかし、第二次世界大戦が始まると加賀正太郎の事業にも陰りがみえはじめ、戦後もその建て直しができないまま１９５４年喉頭ガンで亡くなりました。加賀の死後、山荘は人の手に渡りますが、アサヒビール株式会社が地元の人々の景観保護のうったえに答えて山荘を購入、現在の美術館となっています。</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>加賀正太郎は恵まれた生まれを活かし、商売でも趣味でもやりたいことをとことん突き詰めた姿勢に憧れを抱かせる人物です。世界の知識も経験も豊富でさぞかし面白い人だったに違いありません。山荘美術館を訪れ、２階のテラスから今でも十分に美しい下界を眺めて、加賀正太郎になりきっていると、彼のロマンや情熱を今でも感じ取れる気がします。</p>
<p>&nbsp;</p>
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		<title>鳥井信治郎</title>
		<link>https://oyamazaki.info/archives/1477</link>
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		<pubDate>Wed, 24 Oct 2012 02:39:42 +0000</pubDate>
		<dc:creator><![CDATA[yamazakilove]]></dc:creator>
				<category><![CDATA[サントリー山崎蒸溜所]]></category>
		<category><![CDATA[人物]]></category>
		<category><![CDATA[サントリー 山崎蒸溜所]]></category>

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		<description><![CDATA[鳥井信治郎は、今や世界のブランドともいえるサントリーの創業者であり、国産のウィスキーを世に出したウィスキーの父といえる人物です。 修行時代 鳥井信治郎は、1879年 大阪の両替商・米穀商の鳥井忠兵衛の次男として大阪市東区 &#8230; <a href="https://oyamazaki.info/archives/1477">続きを読む <span class="meta-nav">&#8594;</span></a>]]></description>
				<content:encoded><![CDATA[<p><a href="https://oyamazaki.info/wp/wp-content/uploads/2012/10/torii.jpg"><img src="https://oyamazaki.info/wp/wp-content/uploads/2012/10/torii.jpg" alt="" title="torii" width="149" height="145" class="alignleft size-full wp-image-1499" /></a>鳥井信治郎は、今や世界のブランドともいえるサントリーの創業者であり、国産のウィスキーを世に出したウィスキーの父といえる人物です。</p>
<h4>修行時代</h4>
<p>鳥井信治郎は、1879年 大阪の両替商・米穀商の鳥井忠兵衛の次男として大阪市東区釣鐘町で生まれます。北大江小学校尋常科入学後、4年飛び越えて高等科に編入。高等科4年卒業と同時に、北区梅田出入橋の大阪商業学校に入学。２年後、当時の大阪商人の習慣に従い、１３歳で大阪道修町の薬種問屋小西儀助商店 （現コニシ） へ丁稚奉公に出ます。この時、この商店で扱っていた洋酒についての知識を得ます。明治の薬問屋は、薬だけでなく、ブドウ酒やウイスキーも扱う場所であり、問屋でまずブレンドしてからの出荷でした。鳥井信治郎はここでブレンドの才を磨きます。</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>1895年（明治28年） 博労町の絵具・染料を扱う小西勘之助商店へ移った後、明治３２年信治郎２１歳の時、独立します。大阪市西区で鳥井商店を起こし、得意の鼻を生かして、甘みのあるぶどう酒を調合し売り出します。これは当り利益をもたらします。さらに、スペイン産の葡萄酒を販売するが、こちらは全く売れませんでした。日本人の味覚にあわなかったためでした。欧州本場の酒をどのようにして日本で売り出すかという試行錯誤が続きます。</p>
<p>&nbsp;</p>
<h4>赤玉ポートワイン誕生</h4>
<p>こうして明治４４年に生まれたのが、「赤玉ポートワイン」です。濃紅色でとろりとした甘みのあるワインで日本人の嗜好にあっていました。サントリーの社名はこの赤玉を太陽にみたてて、ＳＵＮとし、それに名前の鳥井をつけて「サントリー」と命名したといわれています。この赤玉ポートワインは大当たりを獲得し、大正後期には国内ワイン市場の60%を占めるまでに成長します。鳥井信治郎には広告の才能もありました。健康に良いとかで、当時希少価値のあった医学博士の推慮を総動員したり、軍服に似た服装の社員を乗せて宣伝隊を町に送り出したり、松島栄美子に当時の法例すれすれの上半身裸のポスターを作成したりしました。一般雑誌として「洋酒天国」を発行します。この雑誌からは作家の開高健、随筆家の山口瞳、漫画家の柳原良平などが台頭します。1921年（大正10年）には 株式会社寿屋を設立します。</p>
<p>&nbsp;</p>
<h4>国産ウイスキーへの挑戦</h4>
<p>1923年（大正12年）には、 本格的な国産ウイスキー生産を志します。技師長には、イギリスの醸造学の大家ム－ア博士を迎えようとしますが、博士の推薦でウイスキーの本場スコットランドキャンベルタウンでウイスキー留学の経験のある竹鶴政孝を招くことになります。大阪府島本村山崎にウイスキー蒸留所（現山崎蒸溜所）を建設し、ウィスキー生産に乗り出します。膨大な資本がかかり、熟練の腕を持つ人材が必要で、１０年はまったく投資額を回収できないときては、社内では猛反対があったといいます。なお、竹鶴政孝は後に独立しニッカウィスキ－を設立します。</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>こうして、1929年（昭和4年） 初の国産ウイスキーの「サントリーウイスキー白札」（現サントリーホワイト）と「サントリーウイスキー赤札」（現サントリーレッド）を発売します。しかし、焦げ臭い、という悪評が立ちますが、売れ行きは芳しくなく、経営不振の為にスモカ歯磨の製造販売権や買収したビール事業を手放すこととなってしまいます。それでも諦めない<br />
鳥井信治郎は、生産を赤玉とウィスキ－のみに専心します。赤玉で得た利益をウィスキー事業に投資。次々にできたウィスキ－をなんとか得意先に持って行きます。１年単位で課税していた酒税の改変を求めて国税庁に押し掛けていきます。</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>そして、1931年（昭和6年）には、サントリ－特角を出し、さらに1937年（昭和12年） 「サントリーウイスキー12年」（現サントリー角瓶）を発売。これが当ります。さらに昭和１５年には「サントリ－オ－ルド」を発売します。ウィスキー事業はこれで軌道にのると思われましたが試練が訪れます。太平洋戦争が勃発し、さらに期待していた長男吉太郎が急死したのです。</p>
<p>戦争が終わると、幸運にも爆撃されなかった山崎蒸留所は戦火を免れました。生産したウィスキーは進駐してきた米兵の需要を満たしていきます。また、当時主税局長だった池田隼人からもう少し大衆的なウィスキ－を出したらどうかと助言を受け、大衆向けのトリスウィスキ－を発売し、さらにトリスバーを全国に開きます。</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>昭和３０年紫綬褒章を受賞後、1961年（昭和36年） 寿屋の会長に就任。次男の敬三に経営を譲り、第一線から引退します。1962年（昭和37年）2月20日 急性肺炎で死去。享年83でした。</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>頑迷なまでの信念で難事業を成功させ、時に独裁的な自信家で楽天家と評されますが、数々の困難を乗り越え今日のサントリーの礎を築いた偉人です。</p>
<p>「なんでもやってみなはれ、やらなわからしまへんで」というざっくばらんな名言を残しています。</p>
<blockquote><p>参考：　<a href="http://www.amazon.co.jp/gp/product/4101493014/ref=as_li_ss_tl?ie=UTF8&#038;camp=247&#038;creative=7399&#038;creativeASIN=4101493014&#038;linkCode=as2&#038;tag=ybc-22">美酒一代―鳥井信治郎伝</a><img src="http://www.assoc-amazon.jp/e/ir?t=ybc-22&#038;l=as2&#038;o=9&#038;a=4101493014" width="1" height="1" border="0" alt="" style="border:none !important; margin:0px !important;" />
</p></blockquote>
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		<title>蘭の妖精 『ララン』</title>
		<link>https://oyamazaki.info/archives/1723</link>
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		<pubDate>Mon, 29 Oct 2012 02:50:20 +0000</pubDate>
		<dc:creator><![CDATA[yamazakilove]]></dc:creator>
				<category><![CDATA[人物]]></category>
		<category><![CDATA[おみやげ]]></category>
		<category><![CDATA[キャラ]]></category>

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		<description><![CDATA[大山崎町のゆるきゃら、蘭の妖精 『ララン』ちゃんです。 &#160; 性別：女の子 出身地：京都府乙訓郡大山崎町 誕生日：平成10年(1998年)12月4日 &#160; 大山崎山荘（現アサヒビール大山崎山荘美術館）の建 &#8230; <a href="https://oyamazaki.info/archives/1723">続きを読む <span class="meta-nav">&#8594;</span></a>]]></description>
				<content:encoded><![CDATA[<p><a href="https://oyamazaki.info/wp/wp-content/uploads/2012/10/rekishishiryo_02.jpg"><img class="aligncenter size-full wp-image-1226" title="rekishishiryo_02" src="https://oyamazaki.info/wp/wp-content/uploads/2012/10/rekishishiryo_02.jpg" alt="" width="550" height="413" /></a></p>
<p>大山崎町のゆるきゃら、蘭の妖精 『ララン』ちゃんです。</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>性別：女の子<br />
出身地：京都府乙訓郡大山崎町<br />
誕生日：平成10年(1998年)12月4日</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>大山崎山荘（現アサヒビール大山崎山荘美術館）の建築主としても知られている加賀正太郎の蘭の栽培の偉業を後世に伝えるため、平成10年度の一般公募により、大山崎町商工会のイメージキャラクターとして、京都府乙訓郡大山崎町で誕生しました。<br />
&nbsp;<br />
頭に付いた蘭の花びらは、「大山崎」 の 「大」の文字をデザインしています。また、胸の三本ラインは、京都・大山崎町で見ることのできる 「木津川」、「宇治川」、「桂川」 を表し、背中で一本となって 「三川合流」 の 「淀川」 を表現しているとのこと。<br />
&nbsp;<br />
なお、家族構成は父と母、もうすぐ弟か妹が生まれるという情報も(2010年4月現在)。また、ラニャンという猫を飼っている。趣味は蘭を育てること。好きな食べ物は竹の子・エゴマ油。ライバルはドアラ。少々メタボ気味だそうです。</p>
<p>&nbsp;</p>
<p><a href="http://oyamazaki.kyoto-fsci.or.jp/raran.html">蘭の妖精 『ララン』</a></p>
<p>&nbsp;</p>
<p>西田書店などで、ストラップ等のキャラクターグッズが販売しています。</p>
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