天王山の戦いとは、羽柴(豊臣)秀吉と明智光秀によって行われた、「天下分け目の戦い天王山」と言われる戦いで、西暦1582年の6月13日(西暦7月2日)に、ここ山崎で起こりました。明智光秀による織田信長暗殺(本能寺の変)後の天下を、秀吉と光秀で争った戦いです。
 
このページでは天王山の戦いがいかにして起こったのかを解説します。
 

本能寺の変 武将達と諸勢力の状況

 
本能寺の変が起こったとき、織田信長は既に京を中心とした畿内とその周辺を手中に収めていました。1582年3月には甲斐の武田氏を滅ぼし、勢いは留まるところを知りませんでした。関東の北条氏、東北の伊達氏、九州地方の大友氏の有力大名は恭順の意を示し、残る強力な敵は中国地方の毛利氏、四国の長宗我部氏、九州の島津氏、北陸の上杉氏でした。
 
その大名達との戦いのために、信長配下の武将達は各地で戦闘、もしくは準備に終われていました。柴田勝家は対上杉で魚津城に、滝川一益・羽柴秀吉・織田信孝などもそれぞれ敵と対峙し、いずれも優勢な状態でした。信長の天下統一はゆるぎないものと思われました。

 

明智光秀は、武田氏との戦いで労のあった徳川家康が堺を訪れていたため、その接待役を務めていましたが、解任され、光秀は、17日に居城・坂本城に戻ります。信長から家康供応の内容を叱責されることになったからだとの説がありますが、主な理由は、15日に毛利軍と戦う秀吉から、毛利輝元・吉川元春・小早川隆景の軍勢が戦場の高松城まで援護にくるとのの情報が入り、応援の要請が届いたためであるとされています。光秀は、毛利討伐のため、羽柴秀吉援護の出陣を命ぜられます。

 

本能寺への道

明智光秀は直ちに丹波亀山城に移り、出陣の準備を進めます。供応を解任されたばかりで、今度は先陣を努めるよう申し渡され、内心穏やかではなかったかもしれません。28日・29日に「時は「今 天が下知る 五月哉」の発句で知られる連歌の会を催します。この句が信長を討つ決意を表すものという説がありますが、諸説あり、はっきりとはしていません。

 

一方、織田信長は家康の持て成しを、惟住五郎左衛門以下4名に命じ、上洛します。秀吉の知らせを好機と捉え、自ら出陣して中国の歴々を討ち果たし、一挙に九州までも平らげる、またとない機会となるであろうと考えたからでした。津田源十郎・賀藤兵庫頭に安土城を任せて、小姓を中心とする僅かの供回りを連れ安土城を発ちます。同日、京・本能寺に入り、ここで軍勢の集結を待ちます。その時の護衛はわずか数十人でした。

 

光秀率いる毛利遠征軍は6月1日夕方亀山城を出発し、京に向かいます。そして桂川を渡ったところで「敵は本能寺にあり」と宣言したといいいますが、そんなことはなく、斎藤利三ら重臣にしか目的を伝えていなかったという説が有力です。『本城惣右衛門覚書』によれば、下級武士には徳川家康を討つものと伝えられていたことが記されています。言った方がかっこいいのですが、なさそうです。

 

本能寺の変

6月2日早朝、明智軍は本能寺を包囲します。馬の嘶きや外の物音がおかしいと察知した、信長は小姓の蘭丸に見に行かせますが、やがて鉄砲の音が聞こえ、蘭丸の報告で、旗の紋が明智光秀の紋である桔梗であることを知り、謀反であることを悟ります。明智光秀の性格、能力を知っていた信長は、脱出は不可能であることを知り、脱出を進める蘭丸達の勧めに従わず、自ら弓を持ち、次に槍を持ち奮戦したといいます。しかし明智の軍勢は1万6000人、信長を守っていた兵はわずか百名あまり。やがて殺到する兵士に槍傷を受けたため防戦を断念し、女衆に逃げるよう指示し、本能寺に火を放ち自害したと伝えらています。

 

また、同じく上洛し妙覚寺に宿を取っていた信長の長男である織田信忠の元に、変に気付いた村井貞勝が駆け込みます。既に事は決し、直ちに逃げるように織田信忠に進言しますが、信忠は明智軍は包囲検問をしているだろうからと逃亡をあきらめて、守りに適した二条城に逃げ込みます。駆けつけた兵を合わせて1600程度で、三度明智軍を後退させる奮戦を見せましたが、圧倒的な数の前に敗北、村井貞勝は討ち死に、織田信忠は自害して果てました。

 

明智光秀が何故、謀反に及んだのかについては、司馬遼太郎の小説『国盗り物語』などの物語で、長らく信長に対する恨みであるとされていましたが、近年、恨みではない別の動機が支持されることが増えてきました。野望説や、光秀以外の首謀者がいた(秀吉、あるいは徳川家康など)説など(※漫画へうげものなど)多数あり、日本史における大きな謎の1つとなっています。
 
ちなみに、天王山ハイキングコースにある「秀吉の道」では、天下統一を目指し、合理性に徹した改革を進める「鬼」織田信長とし、それについていけなくなった古い伝統や人脈を尊ぶ「人」明智光秀として両者を描いています。
 
本当の所は、今もなお明智光秀の胸の中のままです。

天王山の戦い(山崎の戦い) >>その1 本能寺の変
>>その2 秀吉の中国大返し
>>その3 山崎の戦い

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