室町時代の俳諧作者で、寛正6年(1465)、近江国滋賀で生まれたとされますが、本名・出自については定かではありません。俳諧撰集「犬筑波集」を残し、高踏的な連歌に対し,庶民世界を面白く詠みあげており,近世俳諧の先駆をなすものであり、江戸時代初期の談林俳諧に影響を与え。交流のあった荒木田守武とともに、俳諧の祖と称されています。

 

山崎宗鑑の「山崎」はここ山崎の地名からきています。
室町幕府9代将軍である足利義尚に仕えていましたが、義尚の陣没(延徳元年、1489年)後出家し、山崎を訪れました。(30歳前後とされる)、当時繁栄していた山崎油神人の元で連歌講の中心人物になり、山崎の地に隠棲します。宗鑑はこの付近にあったとされる冷(霊)泉庵で連歌の会を開いたり、俳句の指導をしていたとされています。また書にも優れ、生計は書を売ることによって立てていたともいわれ、宗鑑流として多くの人々に愛されました。

 

山崎宗鑑は大永3年(1523年)ごろ山崎の地を去りますが、この時暮らしていた「宗鑑井戸」「宗鑑旧居跡」が今も残されています。

 

晩年は(香川県観音寺市)の興昌寺に庵「一夜庵」(一夜以上の宿泊客を認めなかったそうです)にて、天文九年(1540)に生涯を終えたといわれています。

天王山の登山口に山崎宗鑑句碑が建てられています。句碑には宗鑑の句「うずききてねぶとに鳴や郭公」が彫られています。

 

一夜庵の情報はこちら>> 香川県観音寺市 かんおんじ観光ガイド 


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