安土桃山時代の戦国の武将。「本能寺の変」を起こした武将である。
青年期は諸説あるものの、斎藤道三、朝倉義景に仕えた後に、永禄12年(1569年)頃から織田信長の直臣となる。織田信長の家臣となって、比叡山焼き討ちなど各地で武功を上げ、近江国の滋賀郡に所領を与えられ、坂本城を築いて居城としました。
 
その後も、石山本願寺や荒木村重と松永久秀等、信長に抵抗をみせる武将を討伐、近畿の各地を転戦しつつ、丹波国の攻略を最後に近畿を平定し、丹波一国(約29万石)を与えられ計34万石となり、信長の重臣としての地位を固めました。

 

しかし、天正10年(1582年)6月2日に、自分を取り立ててくれた主君である信長を本能寺で討ち滅ぼします。なぜ明智光秀が織田信長を討ったのか、この事件は今でも日本史の謎の一つとされています。怨恨によるもの、義憤によるもの、新しい考え方についていけなかった説、陰謀説など、多々異論があり、確固たる原因や理由が結論としては未だに出ていません。

 

本能寺の変後、信長の後継者となることを目指しますが、中国からの予想外の撤兵を見せた豊臣(羽柴)秀吉と、ここ山崎で戦い(天王山の戦い)敗退しました。居城である坂本城に逃げる途中、落ち武者狩にあって落命したとされています。

 

そうした経緯から、明智光秀は長らく主君殺しの裏切り者の代表として、汚名をかぶってきました。また本能寺の変後に、征夷大将軍の宣下を受けたという話があり、そこから、たったの3日で天下を失った「三日天下」という言葉が生まれる不名誉な人物になりました。(実際は、11日ないし12日間の天下)

 

しかし、最近の研究によって、才知、深慮、狡猾で裏切りや密会を好むという人物像に変化してきました。光秀は諸学に通じ、和歌・茶の湯を好んだ文化人として、内政手腕に優れ、領民を愛して善政を布いたことがクローズアップされるようにもなりました。

 

山崎には光秀ゆかりの地として、布陣図が俯瞰で確認できる旗立松があり、大山崎町歴史資料館では山崎の戦いの詳しい説明をみることができます。


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